ヒデトがまた、自説を展開している。
「クラス会ってのは、会場が八割だ。八割!」
小鼻を膨らませながら、ヒデトは力説している。六十七歳になっても、この男の主張の強さは変わらない。いや、歳をとってますます磨きがかかっている。
「はいはい、ヒデトの八割理論はもう聞いたから」
純子がひらひらと手を振って遮る。
「はいはい、幹事長の仰るとおりでございます!」
ケバオが大きな体を揺らして茶化して言った。この男は高校時代、いつも寝てばかりいた印象だったが、今はやたらと冗談ばかり言っている(もちろん寝ていない)。ノートパソコンの画面をくるりとみんなのほうに向けて、「ほら、ウェルカムボードのデザイン、こんな感じでどう?」と見せてくる。画面には、懐かしいクラス担任の似顔絵をベースにしたデザインが映っていた。AIを使って作ったらしい。いつの間にこんな器用な人間になったんだろう、この人は。
「おお、いいじゃないか!」
ヒデトが身を乗り出す。
「いいでしょ? 大島先生の写真をAIに解釈させて、最新の画像生成AIに――」
ケバオが得意げに説明しているその横で、健ちゃんがそんな話を聞きながら皆に資料を配っていた。ふっくらとしたお腹に、柔和な笑顔。高校時代はサラサラの髪をなびかせた、クラスの女子がため息をつくような好青年だったのに、今はすっかり優しいおじいちゃんだ。でも、あの穏やかな笑顔だけは、五十年間まったく変わっていない。
「健ちゃん、ありがと」
私――ヨシエは、差し出された資料を受け取った。健ちゃんは「うん」と頷いて、何も言わずにヒデトの横に戻っていく。ヒデトが何か突飛なことを言い出すたびに、「うんうん、それもいいな」とやんわり受け止める。この二人の関係も、五十年間ずっとこうだ。
「ねえ、二次会の場所なんだけどさ」
純子がもう次の話題に移っている。この人は昔から気が早い。クラス会の本体の中身もまだ決まっていないのに、もう二次会の心配をしている。でも、こうやって先のことをどんどん考えて場を回していくのが純子で、それは高校時代から変わらない。あの頃も、文化祭の準備で男の子たちを引っ張り回していた。
「二次会の前にまず本体だろ、本体」
ヒデトがたしなめるけれど、その口元は緩んでいる。この五人で集まると、いつも話があっちこっちに飛んで、なかなか前に進まない。でも不思議と、最後にはちゃんとまとまる。
私は少し引いた場所から、みんなの横顔を眺めていた。
ヒデトの額に刻まれた深いシワ。健ちゃんの白くなった髪。純子の目尻の笑いジワ。ケバオのたるみ始めた首元。そして、自分の手の甲に浮かぶ血管。
六十七歳。
高校を卒業してから、もう五十年近くが経つ。
あの頃の私たちは何も怖くなかったし、時間は無限にあると思っていた。まさか六十七歳になった自分たちが、こうしてカフェに集まってクラス会の相談をしているなんて、十七歳のあの日には想像もしなかった。
ふと、懐かしさが胸に広がる。あの頃に戻れたら、どんなに楽しいだろう。
「――で、クラス会のテーマなんだけどさ」
ヒデトがコーヒーカップを置いて、少し改まった顔をした。
「”青い鳥”ってのはどうだ?」
一瞬、全員が黙った。
「青い鳥って……あの?」
純子が目を丸くする。
「そう、あの青い鳥。覚えてるだろ、三年D組。学校祭で俺たちがやったやつ」
覚えている。覚えているに決まっている。
ヒデトが台本を書いて、健ちゃんがチルチルで、純子がミチルで、ケバオが――。
その瞬間、視界がぐらりと揺れた。
ヒデトの声が遠くなる。純子の笑い声が水の底に沈むように薄れていく。
テーブルの上のコーヒーカップが、ノートパソコンが、ケバオのデザインしたウェルカムボードが、すべてが滲んで――
そして、チョークの匂いがした。
最初に気づいたのは、机の感触だった。
つるつるのテーブルではない。ところどころに彫刻刀の傷がある、木の机。誰かがボールペンで落書きした跡。窓から入る午後の日差し。
私は自分の手を見た。
シワがない。血管も浮いていない。日焼けもしていない、十七歳の手。
教室だ。
三年D組の教室だ。
窓の外には、見覚えのあるグラウンドが広がっている。サッカー部の子たちが走っている。空が高い。あの頃の空だ、と思った。六十七歳の私が見上げる空とは違う、どこまでも遠くて青い空。
頭がくらくらする。いったい何が起きているのか、わからない。でも、五感がとらえるすべてが、あまりにもリアルだった。チョークの粉っぽい匂い。懐かしい学校の匂い。廊下から聞こえる笑い声。
「おーい、集まれー!」
聞き覚えのある声が、教室の前方から響いた。
声のするほうを見て、私は息を呑んだ。
ヒデトだ。十七歳の、ヒデト。
髪の毛が黒々している。顔はシワが無い、剥き立ての茹で卵のようだ。でも、その立ち姿は六十七歳のヒデトと同じだ。教室の前に陣取って、腕組みをして、みんなを見回すあの感じ。黒板の前に立つと、自然と「俺がここを仕切る」という空気を出す。誰に頼まれたわけでもないのに、気がつけば中心にいる。
あぁ、ヒデトだ。まぎれもなく、ヒデトだ。
五十年後も変わらないあのリーダーシップは、この教室で生まれたのだ。
ヒデトの横に、すっと立っている男の子がいた。
――健ちゃん。
思わず、目を見張った。
髪がサラサラだ。背筋がすっと伸びていて、制服がよく似合う。清潔感があって、どこか品がある。これが、あのお腹がふっくらした健ちゃんと同一人物だなんて、知らない人が見たら絶対に信じない。
でも、優しい笑顔は同じだった。
ヒデトが何か言うたびに、「うんうん」と穏やかに頷く。あの相槌。あの柔らかい空気。五十年後に皆に資料を配りながら「うん」と頷くあの健ちゃんが、ここにいる。見た目はまるで別人なのに、纏っている空気は同じだ。
教室の真ん中あたりで、女の子の明るい声が弾ける。
「えー、なになに? なんの話?」
純子だ。
スカートを翻して、男子のグループにもずんずん入っていく。「ちょっとそこどいて」と男の子の肩をぽんと叩いて、ヒデトの話に割り込んでいく。その屈託のない笑顔。その場をぱっと明るくする声のトーン。高校生の純子は、六十七歳の純子と驚くほど同じだった。
ママさん合唱で全国大会に出るあの歌声の原点は、この明るさにあるのだろう。周りの人を巻き込んで、一緒に楽しもうとするあのエネルギーは、十七歳のときからすでに完成していた。
私は一人ずつ見るたびに、不思議な感動を覚えていた。五十年の歳月が過ぎても、人の核にあるものは変わらないのだ。ヒデトのリーダーシップも、健ちゃんの優しさも、純子の明るさも、十七歳のときにはもう、ちゃんとそこにあった。
そして。
教室の一番後ろの席。
窓際の一番後ろの席で、長身の体を丸めて、机に突っ伏している男の子がいた。
ケバオ。
――寝ている。
間違いなく、寝ている。
規則正しい寝息が聞こえる。まるでその場所が寝るために用意されたスペースであるかのように、完全に寝ている。六十七歳のケバオとは印象が違う。
あの、大きな声で冗談を言うケバオ。ノートパソコンを開いて目を輝かせながらデザインを見せ自慢するケバオ。AIを使いこなし、いろんなものを作っては見せたがるケバオ。自己主張強めのケバオ。
そのケバオが、ここでは――ただ、寝ている。
他の三人は、十七歳の姿の中に六十七歳の面影がはっきりと見えた。未来の彼らを知っているからこそ「あぁ、なるほど」と深く納得できた。
でも、ケバオだけが違う。
目の前のこの眠そうな男の子(いや完全に寝ている男の子)が、本当にあのケバオになるの?
私はケバオの寝顔をしばらく眺めていた。そう、いつもケバオは寝ていた、起きていた姿を思い出せないくらい。
三年D組に大事件が起きたのは、それから間もなくのことだった。
学校祭のクラス対抗劇。ヒデトが何週間もかけて書き上げた自信作の台本が、教頭先生に呼び出されて、あえなくNGになったのだ。
「内容が過激すぎる。却下だ」
教頭先生の一言で、ヒデトの台本は白紙に戻された。
教室に戻ってきたヒデトの顔を見て、みんなが息を呑んだ。ヒデトは、がっくりと肩を落として自分の席に座った。教室がしんと静まり返る。窓の外の部活の声だけが、やけに大きく聞こえた。
あのヒデトが、打ちひしがれている。
みんながかける言葉を探しているとき、三十秒――いや、本当にぴったり三十秒だったと思う――ヒデトが顔を上げた。
そして、ニヤリと笑った。
私はその顔を見た瞬間、背筋がぞくりとした。
ヒデトのこの顔を、私は知っている。六十七歳のヒデトも、ときどきこの顔をする。幹事会で何か突飛なアイデアを思いついた時、あの悪い顔をするのだ。この顔の時は、必ず事件になる。五十年間、一度も外れたことがない。
「――”青い鳥”をやる」
ヒデトは静かに言った。
「……は?」
クラス中が目を丸くした。青い鳥。メーテルリンクの、あの「青い鳥」? チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探して旅をする、あの童話?
「マジで? 青い鳥って、あの青い鳥?」
「幼稚園のお遊戯会じゃないんだぞ」
「ヒデト、やけになってないか?」
落胆の声があちこちから上がった。あの過激な台本のあとに「青い鳥」では、振り幅が大きすぎる。
でも、ヒデトの口元は緩んだままだ。あの悪い顔のまま、腕を組んで、みんなの反応を楽しむように眺めている。
「安心しろ。教頭には”青い鳥”って言っとけばいい。中身は――」
ヒデトは、一枚の紙を高く掲げた。
「俺が書く。完全オリジナルの”ヒデト版・青い鳥”だ」
教室がどよめいた。
なるほど。そういうことか。「青い鳥」という名前で教頭を安心させておいて、中身は全くの別物にする。ヒデトは最初から折れてなどいなかった。三十秒の沈黙は、この作戦を練るための時間だったのだ。
さすがヒデト。私は笑いが込み上げてきた。五十年後のヒデトが幹事会でやっていることと、まったく同じだ。一見ダメになったように見せかけて、もっと面白いものを出してくる。あの強引さと、あのしたたかさ。全部、ここから始まっていたのだ。
ヒデトの号令のもと、準備は一気に動き出した。
時間がない。本番まであとわずか。ヒデトの達筆な字で次々と書き上げられていく台本を、みんなが奪い合うように読んでいく。
「チルチルは健ちゃん、ミチルは純子。これは決定な」
ヒデトが有無を言わさず配役を決めていく。
チルチル役の健ちゃんは、台本を読んで静かに頷いた。「うん、やるよ」。その一言に、教室の空気がふわりと和らぐ。健ちゃんがいると、どんなに切羽詰まっていても、「なんとかなるかも」と思えてしまう。優しい兄貴みたいな存在感。
「ミチルは私がやるわ!」
純子が胸をどんと叩いた。歌あり、芝居ありのミチル役は、純子にとってはまさにはまり役だ。台本を一読しただけで、もう台詞を覚え始めている。
「ちょっと男子、そこ動いて! 練習するんだから場所あけて!」
純子の声が教室に響くと、男子たちが「へいへい」と机を移動させる。あのエネルギー。あの有無を言わせない推進力。六十七歳の純子が「二次会の場所はここね、決定!」と仕切る姿が、ぴたりと重なった。
ヒデトが追い詰められた場面では、いつも健ちゃんが横に来た。台本の直しで頭を抱えるヒデトに、「ここ、こうしたらどうかな」と静かに提案する。ヒデトが「うーん」と唸ると、「まあ、ヒデトの好きなようにやったらいいよ。俺はどっちでもいいと思う」と引く。でも不思議なことに、最終的にヒデトは健ちゃんの案を採用することが多かった。
私もこの芝居の一員だった。脇役だけど、みんなと一緒に台詞を合わせて、動きを確認して、少しずつ芝居が形になっていく。この感覚。一つのものをみんなで作り上げていく、この高揚感。六十七歳になった今でも、幹事会でクラス会の準備をしているとき、同じ感覚を覚えることがある。ああ、私たちはあの頃からずっと、一緒に何かを作ってきたのだ。
そして準備が佳境を迎えたある日、ヒデトが突然、大きな決断を下した。
「――青い鳥を、出す」
みんなが手を止めた。
「出すって……何を?」
「青い鳥だよ、青い鳥。最後に、本物の青い鳥を舞台に出す」
ヒデト版・青い鳥のストーリーは、チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探し続けるけれど、結局見つけられない、という話だった。見つからないまま終わるところに、ヒデトなりのメッセージがあったはずだ。
それなのに、青い鳥を出す?
「いいんだよ。出したほうが面白い。俺にはわかる」
ヒデトの目が光っている。あの悪い顔とは違う、何かを確信した目。
「でも、誰がやるんだ? 役者はもう全員埋まってるぞ」
全員の視線が、教室の隅を――いや、教室の一番後ろの席を向いた。
ケバオが寝ていた。
いつも通り、ぐっすりと寝ていた。
「……ケバオ?」
「他にいないだろ」
私は思わず立ち上がった。「私が起こしてくる」。
ケバオの席まで歩いていき、肩をそっと揺すった。「ケバオ、ケバオ」。しかしケバオは微動だにしない。平和な寝息が続いている。
「無理無理、やめとけ」
後ろからみんなの声が飛んでくる。
「ケバオは寝たら起きないぞ」
「昨日も数学の時間ずっと寝てたし」
「一時間目から六時間目まで寝てた日もあったよな」
みんなが笑っている。でもヒデトだけは笑っていなかった。ずかずかとケバオの席に歩いてきて、机をバンと叩いた。
「ケバオ! 起きろ!」
ケバオがのっそりと顔を上げた。目が半分しか開いていない。
「……ん?」
「お前、芝居で青い鳥をやれ」
「……青い鳥?」
「台詞は一つだけだ。これだけ覚えろ!」
ケバオは寝ぼけた目をこすりながら、ふわぁとあくびをした。
「いいよー」
あまりにも軽い返事だった。隣で聞いていた私は不安になった。絶対に覚えていないだろう、この人。明日になったら「え、なんの話?」って言うに決まっている。
でも、ヒデトは満足そうに頷いた。「よし、決まりだ」。
準備は最終段階に入った。日に日に芝居の完成度が上がっていく。健ちゃんのチルチルは、あの優しい声が客席の後ろまで届くような、温かい芝居になっていた。純子のミチルは、歌うシーンで鳥肌が立つほどの声量と感情が乗っていた。脇役の私たちも、一つ一つのシーンを丁寧に作り込んだ。
ただ一つ。
ケバオだけが、相変わらず寝ていた。
練習にもほとんど来ない。たまに来ても、隅っこでギターを弾いているか、寝ているかのどちらかだ。「はははは、私が青い鳥なのだ」の台詞を練習している姿を、誰も見たことがなかった。
大丈夫なのか、本当に。
不安を抱えたまま――本番の日は来た。
幕が上がった瞬間、空気が変わった。
照明が舞台を照らし、客席が暗くなる。ざわざわしていた体育館が、しんと静まる。
チルチル役の健ちゃんが舞台に立った。
「ミチル、行こう。青い鳥を探しに」
静かで、でも芯のある声。健ちゃんの声には、人を安心させる力がある。客席の空気がふわりと柔らかくなるのが、舞台袖からでもわかった。
「うん、お兄ちゃん!」
純子のミチルが飛び出してきた。満面の笑顔。その声は体育館の天井まで届きそうなくらい伸びやかで、客席からは小さな感嘆の声が漏れた。
芝居は快調に進んだ。
ヒデト版・青い鳥の物語は、原作をベースにしながらも、台詞のそこかしこにヒデトらしいひねりが効いていた。笑えるところでは客席がどっと沸き、静かなシーンではしんと聞き入る。こんなに良い芝居になるなんて、正直、想像以上だった。
客席の隅に、教頭先生の姿が見えた。腕組みをして、最初は「あいつめ」と言わんばかりの険しい顔をしていた。「青い鳥」と聞いて許可を出したのに、中身がまるで違うのだから、怒って当然だ。でも、芝居が進むにつれて、その腕組みが解け、体がだんだん前のめりになり、いつしか食い入るように舞台を見つめていた。ヒデトの芝居は、教頭先生すら引き込んでしまったのだ。
私も脇役として舞台に立ちながら、胸が熱くなっていた。みんなで作り上げてきたものが、今、客席に届いている。この一体感。この充実感。
そして。
物語はいよいよ終盤に差しかかった。
チルチルとミチルは、どこを旅しても青い鳥を見つけることができなかった。思い出の国にも、夜の御殿にも、幸福の花園にも、青い鳥はいなかった。二人は疲れ果てて、もう帰ろうと手を取り合ったその時――
舞台袖が、ざわついた。
「ケバオは起きてるか?」
「誰か見てこいよ」
「最後に楽屋見たとき寝てたぞ」
ひそひそ声が飛び交う。不安が伝染する。舞台上では健ちゃんと純子が芝居を続けているけれど、袖にいる全員の頭の中は同じことを考えていた。
ケバオ、頼むから起きていてくれ。
チルチルの台詞が進む。ミチルの台詞が進む。
ケバオの登場まで、あと少し。
ヒデトが舞台袖の奥を覗き込んで、小さく呻いた。「……おい」
ケバオの姿が、どこにもない。
まさか。帰ったのか。いや、着替えてもいないんじゃないか。あの青い鳥の衣装、どこ?。だから言っただろう、ケバオに任せるのは――
その時だった。
舞台の反対側の袖から、大きな影がぬっと現れた。
青い。
全身が、青い。
羽根飾りをつけた、巨大な青い鳥が、ステージの端に立っていた。
長身を活かした、堂々たる体躯。いつの間にか衣装を着て、いつの間にかスタンバイしていたのだ。誰も気づかなかった。寝ていたはずなのに。いつもぼんやりしているはずなのに。
客席がざわめいた。
青い鳥がゆっくりと、ステージの中央に向かって歩いてくる。いや、歩いているのではない。大きく腕を――翼を広げて、飛ぶように、舞うように、中央に進んでくる。その動きは堂々として、力強くて、照明の光を浴びた青い衣装がきらきらと輝いていた。
体育館の全員が、息を呑んだ。
ステージのど真ん中。
青い鳥が、すっと胸を張った。
そして。
「はははは、私が青い鳥なのだ」
その声は、体育館の壁を震わせた。
今まで聞いたことのない声だった。あの、いつも眠そうで、もごもごと何を言っているかわからないケバオの口から、信じられないほど朗々とした、はっきりと通る声が放たれた。深くて、大きくて、体育館の隅々にまで届く声。
一瞬の静寂。
そして、客席が爆発した。
拍手と歓声が沸き上がる。笑い声も混じっている。ケバオを知っている三年D組の生徒たちが、信じられないものを見た顔で叫んでいる。
「ケバオが起きてる!」
誰かが叫んだその言葉が、すべてを表していた。
舞台袖で、私は目が熱くなるのを感じていた。
ケバオの顔を見ていた。あのいつもの眠そうな表情はどこにもない。目が開いている。大きく見開いた目が、客席を、舞台を、照明を、まっすぐに見ている。生き生きとしている。ギターを弾いているときの、あの表情だ。いや、それ以上の輝きだ。
その瞬間、私の頭の中で、何かがつながった。
六十七歳のケバオが、クラス会のウェルカムボードのデザインを「どう?」と見せてくるときの顔。AIでパロディ画像を作って「ほら」と差し出すときの顔。大きな声で冗談を言っているときの顔。
同じだ。
この顔と、同じだ。
ケバオだけが、高校生時代と六十七歳でまるで別人に変わったのだと、私はずっと思っていた。どうしてそなに変わってしまったのかもわからなかった。
でも、違った。
ケバオは変わったんじゃない。
「みんなを驚かせたい、喜ばせたい」という気持ちは、十七歳のケバオの中にも、ちゃんとあったのだ。今、青い鳥の衣装に身を包んで、体育館中を震わせるあの声。ケバオは自分の出番がくるまでずっと寝ていたのではなく、この一瞬のために、ちゃんと準備していたのだ。
――芝居は、最高の幕切れを迎えた。
客席の拍手が鳴り止まない。カーテンコールで全員が舞台に並んだ時、健ちゃんが穏やかに笑っていた。純子が目をうるませていた。ヒデトが腕を組んで、満足そうに――でもどこか悔しそうに「まあまあだな」とつぶやいた。本当は嬉しいにきまっている。いつものヒデトだ。ケバオはもう居ない。また寝ているのか?
「ヒデト版・青い鳥」は学校最優秀賞を受賞した。全学年18クラスの中で1位だ。
みんなで記念写真を撮ることになった。体育館の舞台の上で、衣装のまま肩を組んで。カメラマンの先生が「はい、もうちょっと寄って」と言うのに、なかなかフレームに収まらない。そんな中、気付くとケバオが中央の後列で青い鳥の羽を広げてポーズを取っていた。起きていた。
シャッターが切られた瞬間。
目眩がした。
足元がぐらりと揺れて。
光が――白い光が、すべてを包んで――。
「――ヨシエ、大丈夫か?」
ヒデトの声が聞こえた。
でも、さっきまでの声とは違う。少ししゃがれた、低い声。長い年月をかけて太くなった声。
目を開けた。
カフェのテーブル。コーヒーカップ。ケバオのノートパソコン。クラス会の資料。
六十七歳の、みんなの顔。
「ちょっと、ぼーっとしてたよ? 大丈夫?」
純子が心配そうに覗き込んでくる。その顔には笑いジワがあって、少しふっくらとしている。でも目の奥にあの十七歳の純子と同じ温かさがあった。
「……うん、大丈夫。ちょっと、考え事してた」
私はコーヒーカップを手に取った。ぬるくなっていた。
みんなの顔を、一人ずつ見た。
ヒデトが何か言っている。クラス会のプログラムについて、ああでもないこうでもないと力説している。主張の強いリーダーシップは五十年前と変わらない。ただ、その手にはシミがあって、指の関節は少し太くなっていた。農業大学を出て、地元で土を耕してきた手だ。日差しの中で、何十年も作物を育ててきた手。あのシワの一本一本が、ヒデトが歩いてきた道そのものだった。
「俺が高校の生徒会の時代にはーーー」と一通りの昔話(ほぼ自慢話)を披露し、すぐに「なんちゃって」とオヤジギャグを挟む。みんなが「はいはい」と失笑する。あの悪い顔は健在だ。少々頑固なところも、こだわりが強いところも、友だち思いのところも、全部ひっくるめてヒデトだ。五十年前に台本をNGにされてキッカリ三十秒で立ち直ったあの強さが、今も変わらずここにある。様々なところでリーダーを務めリーダーシップとトラック1台分のオヤジギャグを振りまいてきたことだろう。
健ちゃんがテーブルの上をかたづけてくれている。ふっくらしたお腹。白いものが混ざった髪。サラサラの髪をなびかせていたあの青年の面影は霞んでいる。でも、ゴミをまとめている手つきが、とても丁寧だ。あの手は長年サラリーマンとして家族を守り、上司の様子を伺い、後輩の面倒を見てきたきた手、休日には何百匹もの魚を捌き、何百本もの包丁を研いできた手。五十年間、ずっと誰かのために何かをし続けてきた手。「うん」と頷くあの穏やかな相槌は、十七歳のときから少しも変わっていない。
純子が「ねえ、余興で歌わない? 私たち幹事会で歌うの、楽しいじゃない」と目を輝かせている。六十七歳になっても、そのエネルギーは衰えるどころか、ますます強くなっている気がする。ママさん合唱で鍛えた声は、十七歳の時の可愛らしいくて艶やかなものでは無いが、味のある声だ。人生の喜びも悲しみも全部知った上で歌う歌は、あの頃とは比べものにならないくらい人の心に届く筈だ。
そしてケバオ。ノートパソコンの画面に向かって何かを操作しながら、大きな声で冗談を言っている。「これ、AIで加工したら全員二十歳くらいになるよ。やる?」と笑って、みんなに「やめてよ!」とツッコまれている。あの青い鳥の衣装を着たケバオの顔が、重なった。
私は、みんなの顔を見渡した。
当然ながら17歳の姿では無い。シワもあるし、動きも緩慢だ。
ゆで卵ののような張り詰めた肌もないし、そもそも覇気というものが無い。もし若い頃から失ったものをリストにしたら、本が書けるかもしれない。
でも、それは単なる「劣化」だろうか。私たちは廃車を待つ年代物の中古車なのだろうか?
自分の50年を凄いスピードで振りかえってみる。誰にも言えない大変なことも、辛いこともあった。でもその何倍も掛け替えのない時間と、愛するべき人との時間があって、50年を彩ってきた。もしかしたら、私も17歳から変わらない部分も沢山あるのだろう。すくなくともクラスメイトにはそう見える部分が多いのかもしれない。でもね、
「ヨシエ!聞いている?」とヒデトが聞く。
「聞いてるよ。ちゃんと聞いてる」
聞いてるよ、ヒデト。五十年前から、ずっと聞いてるよ。あなたの言っていることは8割は正しいわ。昔からね。コンプライアンスの意識は、時代遅れだけどね。
「
「じゃあ、クラス会の日程、来月の第二土曜でいいな?」
「いいんじゃない?」
「健ちゃんは?」
「うん、いいよ」
「純子は?」
「オッケー! あ、二次会の店も予約しとくね」
「気が早いんだよ、お前は」
「ケバオは?」
「いいよー」
五十年前と同じ言い方だった。ケバオの「いいよー」は、あの日と同じだった。
窓の外は、冬の夕暮れだった。
高校時代のあの教室の窓から見た空とは違う。でも、同じくらいきれいだと思った。いや、今のほうがきれいかもしれない。だって今の私には、この空の青さの意味がわかるから。
コーヒーを一口、飲んだ。
少しぬるかったけれど、とても美味しかった。hアキ